Story of 父を想う日
一年は、短いようで長くて、長いようで短い
今日、8月9日は父の命日です。
昨年のこの日、父は癌で亡くなりました。
私にとっては、かなり長く感じた1年でした。
いろんなことがあって、コロナのせいかもしれないし、そうでもないかもしれません。
仕事柄たくさんの人の死と関わってきましたが、私にとって真に身近な人が亡くなるのは初めての経験でした。
闘病生活では、色々なことを考え、色々なことに悩んだ2年間でした。
これだけはみなさんに知っておいて頂きたいと思っています。
自分や家族の健康診断だけは必ずやりましょう。
父は数年前に早期の胃がんをやっていましたが、摘出してほぼ完治していました(完治した、と聞いていました)。そんなこともあって、予後の監視含め、健康診断は毎年行っていると勝手に思っていたのでした。
だけど、実際には会社を辞めて個人事業主として仕事をしていたため、会社からの福利厚生ということもなく、健康診断には胃がん後も行っていなかったということが後から分かりました。父が毎年確認していたのは、胃がんについてだけだったらしいのです。
ある程度の規模の会社の会社員のときは当たり前のように健康診断をしている人が多いです。
が、定年退職した後は、ほとんどの場合、自ら進んで健康診断を受けなければそのような機会はやってきません。
歳を重ねれば重ねるほど、健康診断には行きたくなくなるものです。
それを理解して、周りの家族のちょっとした後押しが絶対に必要なので、それを忘れずにいていただければと思います。
もう一度言います。
定年退職された方は特に要注意です。
健康診断をするように言うのは家族の仕事だと思います。
ここから先は、亡くなった当時、父の闘病がどんなものだったのか、家族がどんな思いをするのかその経験が誰かの役にたつようにと、1年前、SNSに綴りました。
だいぶ長い文章だったのですが、1年経った今、少し推敲した上で転記しておきたいと思います。
誰かの役に立ちますように。
3年前の年末ごろから父の手首が腫れ、痛みを訴えました。病院を回ってもなかなか答えは出ず、2ヶ月間を要し、最終的な医師の判断は、ステージ4の肺がん(つまり、すでに転移が始まっているがん)でした。
唐突に、このときから私たちの闘病生活が始まり、肉体的にも、精神的にも浮き沈みの激しい時間が続くことになったのでした。がんの診断を下されたと同時に、およそ2ヶ月との余命宣告をされ、家族は皆途方に暮れました。病人にもかかわらず、あまり痩せない父を見ると、余命なんて信じられなかったのが本心でした。
医者からは、一定の延命は可能だけれど、副作用が強く日常生活を送ることは難しくなる抗がん剤か、新薬で効果のある人には劇的な効果をもたらす、第三の治療法とも言われている免疫チェックポイント阻害剤キートルーダを使用するか、どちらかを選んで欲しいといわれました。
更にキートルーダは効果のない人には一切効かないため、その効果の有無を判断しているうちに、2ヵ月を経過してしまうだろうとの事でした。それはつまり、キートルーダを選択し、効果がなかったとき、それはすなわち死を意味するということだった。
思えば、本当に一番辛かったのはこの選択を迫られたときだったように振り返って感じます。
この時、強い意志を持って父自身がキートルーダを選択し、私たちはその決定に従うことにしたのが幸いでした。キートルーダは効果を発揮し、父は、およそ昨年4月、5月~12月頃までの約7ヶ月程度の間、傍からは病人とは思えないほど元気な姿を取り戻したのでした。
その間、病院には1ヶ月に2回程度通うこととなり、緊急事態に備え、父に運転はさせず、私が運転をして通うことにしました。毎度毎度、キートルーダの効果が続いているかどうかの診断を聞くのが本当に怖かったです。仕事を理由に送迎だけを行って、母や叔母に診断結果を聞くのを任せたのは、自分の弱さだったとそう思います。
病院に行く際は、毎回早朝に出発して、私が車を運転して、助手席に座る父と仕事の話をしている時間は、本当に有意義で価値のある時間でした。こんな機会でもなければ、これほど多くの時間を共有することもなかったかもしれないと。
前年の5月頃、自分の事務所をどこに移すか迷ったとき、仕事のこととか、通勤のしやすさではなく、父が縁をつないでくれたことを重視して今の事務所に移転をすることを決めたということもありました。
余命宣告をされることは、幸せなのか、不幸せなのか。
亡くなるまでの間に、3度も旅行に行って家族の思い出を増やすことができました。これは、余命宣告がされたにも関わらず、元気でいる時間を作れたから、残された時間を大切にしようと思えたからでした。
しかし、余命宣告をされた本人の心のうちはどうだっただろうか?純粋に楽しむことができたのだろうか?
その心中を察することは、想像を超える辛さであり、本人に聞く勇気も出ませんでした。
やがて、キートルーダの効果がなくなってきたことがわかり、ほかに打つ手段もなく、通常の抗がん剤に移行することになりました。ここからは副作用との闘いで、食事もまともに取れなくなってイライラする父と、献身的に支える母、二人を見ていると胸が痛くなりました。
父だって、そんなにつらくあたりたくなんてなかっただろうに。最後に父が残した文書に、「此の先病気の悪化とともに君に優しく出来なくなったらと心配です。」と記されていて、病気が父に対して行った仕打ちに腹が立つ。
晩年、父が歩けなくなると母により一層の負担がかかることになってしまいました。トイレに行くたびに起きては付き添い、夜中じゅう、ほとんど寝ていなかったようでした。
とはいえ、きっと無駄な時間ではなく父の死を受け入れるためには、時間が必要だったし、私たち家族が摩耗することが必要なのではないかと思います。最初に余命宣告をされたとき、母の動揺はすさまじく、この人は一人では生きていけないのではないかと、本気でそう思いました。
結局は、疲れて、擦り減って、少しずつ父の死を受け入れることになりました。冷たいように聞こえるかもしれないけれど、辛い思い、大変な思いをすることも必要だったと思うのです。母は、今でも悲しみに暮れてはいるけれど、今では少し明るくなったように見えます。
父は、亡くなる日の3~4日前から肺炎にかかり、意識はほとんど戻らなくなりました。死亡の前日、呼吸は極端に荒くなり、痙攣が止まらなくなったため、医者からは予断を許さない状況と言われました。
その夜22時頃に私は病室に行き、辛そうな父を見て、この状態が24時間も保つわけないし、そんなことはしてあげたくないとさえ思ったのでした。その日は家に帰る道すがら、なんとなく、もういよいよだろうなということは想像していました。
父の立派なところは、辛かっただろうに、朝まで頑張って、前日お見舞いに来れなかった兄が病院に着いてから、息を引き取ったことでした。兄は、ドイツから日本に戻ってきてからというもの、慣れない環境で仕事が忙しく、病院に行けていない日が続いていました。有休も病院に連れていく過程で取り過ぎていたし、仕方ない状況でした。兄が見舞いに行けないままだったら、そのことが兄に暗い影を落としたかもしれないと思うと、最後の父の頑張りだったように思います。
父と母は、13歳が離れています。いずれ、父が先に亡くなることは誰の目にも明らかでした。
わかってはいたけれど、70歳での死はまだ早く、やらせてやりたいこと、見せてやりたいこと、親孝行はまだまだこれからでした。
性格の問題かもしれないけれど、きっと、もっとやってやれた、もっといろんな話ができたんじゃないかと思う気持ちはぬぐい切れず、何年経っても心のどこかに、父にしてやれなかったことがポッカリ空いた黒い穴のように残り続けるような気がしています。
父は、母のことを本当に愛している。だから、この「してやれなかったこと」は、これから、母にしてやれば、父は私たちを褒めてくれるのかもしれないと。そんな風に思えば、この穴を塞ぐことが、これから私たち兄弟に課せられた父からの最後の宿題なのかもしれません。
闘病生活の中、ずっと後悔していることがあります。
父は数年前に早期の胃がんをやっていましたが、摘出してほぼ完治していました(完治した、と聞いていました)。そんなこともあって、予後の監視含め、健康診断は毎年行っていると勝手に思っていたのでした。
だけど、実際には会社を辞めて、個人事業主として仕事をしていたため、会社からの福利厚生ということもなく、健康診断には胃がん後も行っていなかったということが後から分かりました。父が毎年確認していたのは、胃がんについてだけだったらしい。
病気が発覚する前から、仕事柄、父とは、相続についての話はしていた。財産にはこんなものがあって、どうしたいか、そんな話は困らない程度にやってきたつもりでした。その時に、何故健康診断の話をしなかったのか。死ぬ前に死んだ後の事を考えておくことは、とても大事なことだけれど、それ以上に、死なないようにしておくことはもっと大事だったのに。あの時、健康診断をしているか聞いていたら、発見できたかも知れない。その思いだけは一生拭えそうにありません。
父が亡くなってから、父のPCで探し物をしていると、「人生の最後に皆に伝えたいこと」というワードデータを発見しました。
今感じていること、生い立ちから仕事を辞めるまでの事、病気が発覚してからの事、家族それぞれへのメッセージが残されていました。
余命いくばくかと言われながら、振り返り、みんなが前を向いて歩けるように願いを込めて作られた文章は、さすが父と言うべき素晴らしいものでした。多分きっと、困ったとき、辛いときはここに立ち返って勇気をもらうことになるのでしょう。
父は最後にとても大きな財産を残してくれたのでした。
私たち残された家族は、いずれ前を向いて立ち直る必要がある。父もきっとそれを望んでいるし、父のおかげで、少しずつ前を向けていると思う。
父にはもう少しだけ見守ってもらい、もう私たち兄弟に安心して任せられることを確認して静かに休んでもらいたいと思います。感想はいずれ、あの世で。
仕事上、相続の生前相談を受けることも多々あります。
自分が相談されたことの回答は、専門的に回答できるし、してきたつもりです。
「身体の調子はどうですか?」「健康診断は毎年受けられてますか?」こんな質問をするのも、相談を受けた人の責任のように思うようになりました。
もし、あのとき、薬の選択を迫られたときに、父が自ら選択をすることを拒んだり、あるいは、意識がなく意思を表に出せなかったら、家族への精神的負担はさらに重かったと思います。その時は突然やってくるでしょうし、準備なんかできるものではありません。
できれば、皆さんも身近な人の考えを軽い気持ちで確認する時間を作ってみてください。いつか、それが家族の心の支えになるかもしれません。
最後に、2年前の夏、父が薬で元気だったころ、映像クリエイターの仲間と一つの動画を撮りました。
公私混同して、自分の父で撮影を試みたのですが、今となっては本当に撮っておいてよかったと心底思っています。まだ2歳にもならない自分の子供にも命日にはこの動画を見せて、おじいちゃんはこんな人だったんだと伝えていきたいと思っています。
1年経った今も変わらず。
ふとあるごとに父を思い出します。
今日はみんなで手を合わせ、コロナで大変だけれど、みんな元気でそれなりに楽しく暮らしていると伝えたいと思います。
変わらず、最高にかっこいい父に愛をこめて。